子供が生み出す、想像を絶する「子供」! 『わたしは真悟』が示す大人へのメッセージとは?

 子供が生み出す、想像を絶する「子供」! 『わたしは真悟』が示す大人へのメッセージとは?

あなたに起きたかも知れない、奇跡の物語

子供が生み出す、想像を絶する「子供」! 『わたしは真悟』が示す大人へのメッセージとは?

今からちょうど30年ほど昔のことです。NHK-FMの夜の連続ラジオドラマで『わたしは真悟』というタイトルの、奇妙な物語が展開されました。音声のみの世界ながら、そのストーリーの異様な迫力は強烈な印象を聴く者の心に刻みつけました。ドラマの原作は、何とあの、60~70年代における「恐怖漫画」の代名詞ともいうべき楳図かずお。天下のNHKがドラマ化するという楳図作品『わたしは真悟』は、一体どのような漫画だったのでしょうか。

 

ありふれた悲劇に潜む、異様な物語

楳図かずおの強い個性で知られる「絵」がない状態でも、充分に鮮烈な物語とは―。

小学生の少年と少女が恋に落ちるが、二人は大人の都合によって引き裂かれる。決して現実にあり得ないことではない、このような子供たちの状況から全ては始まります。

具体的には、少年・悟は首都圏の町工場で働く労働者の息子。少女・真凛は裕福な外交官の娘でした。二人は、少年の父の工場にある巨大な腕の姿をした、ありふれた産業用ロボットのプログラム用キーボードにお互いのデータや様々な想いを打ち込んでいきます。大人から見れば、少し危ない悪戯、「禁じられた遊び」の風景です。

やがて、少女の父が英国転勤となり、一家で日本を離れることになります。二人は愛の証明を形にし、永遠のものとすることを願います。少年と少女は子供ながらに男女が愛し合う結果として「結婚し、子供を作る」ことを知っていましたが、「どうすれば子供ができるか」を知りませんでした。そこで二人が質問した相手が、何と彼らが日々想いを打ち込んでいた産業用ロボットだったのです。

コンピュータ、驚異の回答

一体、何が起こる物語なのか?楳図かずおの異様な絵柄とコマ割りによって、何かとんでもないことが起きる予感はひしひしと感じますが、ラジオドラマという、音だけの語りであっても、途轍もない緊迫感が全編を包んでいたのです。

産業用ロボットは、二人が遊びながら様々な質問を打ち込むと、何故か適当にモニターに答えを表示するようになっていました。そして「どうしたら子供ができるのか?」という彼らの質問に、機械はこう回答したのです。

「333ノテッペンカラ トビウツレ」

この時点で、普通では考えられないことが起こっているとわかるのですが、子供たちは必死です。333とは何かと考え、それが東京タワーの高さであることに思い至ると、二人でタワーの最上まで登る計画を練り、実行するのです。

描かれる、人知れぬ「奇跡」の情景

ラジオドラマでは、毎回の最後に、原作でもキャッチコピーのように繰り返される謎めいた一文がつぶやくように流れます。

『奇跡は、誰にでも一度おきる。だが、おきたことには誰も気がつかない』

小学生の二人が、真夜中に東京タワーの鉄骨を伝って登ってゆく、という前代未聞の行動。想像を絶する高所への恐怖と戦いながら、遂に頂上へ達した彼らでしたが、肝心の「トビウツレ」る場所がありません。

結局、異常事態に気づいた大人たちが手配した救護ヘリコプターに、二人は決死の覚悟で飛び込むのでした。そしてこの瞬間、これより全10巻に渡る、「奇跡を起こした二人が、決して気がつくことのない奇跡」の物語が幕を開けるのです。

333ノテッペンカラ トビウツレ。二人がそれを実行した瞬間、その奇怪な回答を打ち出した産業用ロボット自身が、「意識」を持ったのでした。

人知れず自我を得て、巨大な腕だけの姿をものともせず、脳裏に残る少年と少女の面影、即ち「父と母」を求めて、果てのない旅を開始するロボット。これは『鉄腕アトム』以来、日本漫画界に展開されてきたどのようなものとも違う、孤高の「生み出されたもの」ロボットの新たなドラマでした。

動き出す、究極の「子供」

この導入には、いくつかの既視感を覚えます。少年少女が抑えきれぬ想いの結果引き起こす大人が理解できない事件、反社会的行動は近年の押見修造の『悪の華』を思い起こさせるし、異形にして孤独の生命が闇の中に誕生する瞬間はかの『フランケンシュタイン』テーマの再生産のようにも思えます。

しかし、この「反大人」「生命創造」という二つの要素を合体させることで、『わたしは真悟』は楳図かずおが全ての作品に注いできた「子供への絶対的傾倒」という世界観の集大成となったと言えます。

『わたしは真悟』は徹底して、子供たちの視点から描かれます。彼の作品には常に明確な「子供の世界」と「大人の世界」との対立軸が存在し、二つの世界の境界線が大きな出来事や、破壊の発端になっています。

悟と真凛が遠く離れた地で、それぞれが大人となる瞬間である「子供の終わり」へのカウントダウンを進める―それが物語進行の要です。真凛の渡った英国に蔓延する反日感情、そして彼女に欲情し迫る青年。一方で悟は父が工場を解雇され家庭崩壊するなど、大人の世界は二人の「子供」を強烈に脅かします。

二人の名を合体させ、自ら「真悟」と名乗った機械生命を突き動かした衝動は、父・悟が残した愛のメッセージを母・真凛に届けること。 二人の「子供」が終わってしまう前に。

その奇跡は、世界を制す

傍から見れば全く絶望的な、腕だけの産業用ロボットの姿をした「子供」による孤独な旅。真悟は当然ながら行く先々で困難に直面し、彼を形成する機械は破壊されていきます。

しかしある時、他のコンピュータと接触したことからその意識は進化のごとく増幅、機械的身体も再構築されていくのでした。

真悟の成長・増幅の過程は、本作の描かれた80年代当時ほとんど認識されていなかったインターネットの概念を先取りした描写で、もちろんコンピュータに詳しい訳でもない楳図かずおの独自の解釈とセンスによって、見事に表現されている場面と言えます。

最終的には人工衛星ともアクセスを果たし、地上を神の視点のごとく見下ろし査察するようになる真悟。世界の全機械・全生命とつながった真悟は、まさに査察「地球」の意志そのもの査察になったかのようでした。

しかし、地上の真凛の危機を救おうと放った宇宙からの矢が彼女を逆に脅かし、真悟は人間の子供の姿に実体化して自ら矢を受け、母を救います。ここから、頂点を極めた能力は徐々に失われ、意識すら崩壊していく中で真悟は、今度は母の言葉を父に伝えるため日本への帰路につくのでした。

楳図かずお、子供へのまなざし

一体、真悟とは何者なのでしょうか。機械でありながら、全く科学的ではないその発生と、消滅の顛末。幼い状態から一気に頂点へ昇りつめ、また一気に衰退していくその姿には『アルジャーノンに花束を』を思わせるところがあり、また行く先々で不幸な境遇の人々に奇跡を起こす度にボロボロになっていく様は、かの童話『しあわせの王子』のようです。

彼がいかにして生まれたか、そこにヒントがあるかも知れません。子供でなければ、絶対に思いもつかず、実行しようとも思わない途方もない計画。つまり「子供だけの論理」の下で生まれたのが、真悟でした。

彼は「子供にしか作り得ない子供」であり、その存在に作者・楳図かずおの「子供観」が凝縮されているように思えるのです。

楳図かずおは、なぜ子供の世界にこだわるのか。それは、作中に描かれた大人の世界を見ればわかります。世界に拒絶され、孤立する日本。仕事も妻も失い、廃人同様となる父。大人は自らの作り上げた世界の枠組や価値観に捉われ、盲目となった存在なのです。

作中で真悟によって奇跡をもたらされる、手も足も形すらない少女・美紀。彼女が真悟と最も深く心を通わせることができた理由は、その存在が大人にとってのあらゆる枠組・価値観と対極にあった、すなわち通常の子供以上に子供的存在であったことにある、と思われます。

何物にも捉われぬ自由な心にも苦難はありますが、国家や職場といった「属性」が揺らぐことが彼らの絶望ではありません。自らの存在意義と使命を知る真悟が、決して絶望しない姿からも、それがわかるのです。

彼のようなひたむきな生き方の先にしか本当の愛はなく、「奇跡」が起きることもない。楳図かずおの、子供という存在への強い憧憬とこだわりは、人間本来の生き方の答えをそこに見出す、作家の直感と洞察の結果なのかも知れない。そんな風にも思うのです。

結びとして―わずかの希望を込めて

しかし忘れてはならないのは、『わたしは真悟』が他ならぬ大人に向けて描かれた作品だということです。そこに描かれるのは、全ての人の「子供」は終わるという、絶望だけなのでしょうか。

自らの起こした奇跡に、誰も気づくことができないのは、なぜか。それは、おそらく子供が最も神に近づける存在であり、両者の距離が最も縮まった瞬間起きることこそが奇跡であるから。表現が難しいですが、逆にいえば、奇跡を起こす瞬間、人は誰でも子供になっている。彼らは皆、世の常識や、既成の枠組を超越して、悟や真凛のように、そして真悟のように、途方もない所業に挑んだのではないでしょうか。

楳図かずおは、子供たちが起こしてみせた奇跡を描くことによって、世界中の大人たちを少しだけ挑発していたのかも知れません。

大人となったそれぞれの子供が、もう一度、奇跡を起こせるか否か。それは、私たち次第だと。