百名哲『冬の終わり、青の匂い』

百名哲『冬の終わり、青の匂い』

2018/10/10 更新

諦められないことの諦め方

百名哲『冬の終わり、青の匂い』

かつて持っていた夢、好きだった人、自分の居場所だと信じていたところ――どれほど大切にしていたものであっても、時にそれらはなすすべもなく失われてしまう。 「いのちなき砂の悲しさよ握れば指の間より落つ」とは『一握の砂』の中に詠まれている歌だが、そうした喪失の感覚というものは、今も昔も変わらずに人々の胸に去来するものなのではないだろうか。 今回ご紹介する百名哲『冬の終わり、青の匂い』は、そうした喪失の瞬間を迎えた人たちを切り取った短編集で、諦められないはずのものを諦めていく人たちを丁寧に描いた一冊となっている。

 

失われるものへの哀惜

この作品の中に収録されているお話は、その多くが何か大切なものが失われようとしている、あるいはすでに失われた、諦めざるを得なかった人たちを描いたものだ。

例えば百名の処女作でもあるという『ばかねこ』。学生の頃に好きだった男が拾ってきた(なぜか)しゃべるねこと暮らすOLが主人公のお話だ。ねこはいつもおバカな心配ばかりしているが、自分を拾った男が迎えに来ると言ったことを疑わずに信じているなど、肝心なところが抜けている。

しかし、それについては主人公も同じで、彼女は自分が捨てられたのだとわかっていながらも、男を待つことをなかなかやめることができない。

彼女はやがて男と再会するのだが、男の方は自分たちのことなどすっかり忘れて新しい彼女もいる。結局は喧嘩別れになり、最後にねこはいつものようなおバカな調子で夕食の提案をし、彼女は黙ったまま、ねこを腕に抱えて去っていく。

話としては20ページに満たない短いもので、筋書きにもこれ以上の内容はほとんどない。にもかかわらず、この最後にねこを抱えて去っていく主人公の背中からは、いままさに終わった彼女の恋愛に対する哀惜が、非常に深く精緻に描かれているように思われる。

この短編集に出てくる登場人物が失うものは決して特別なものではなく、現実に僕たちが人生の中で出くわすようなものばかりだ。しかしだからこそ、それが失われることの痛みもよく分かる。

私たちが何かを失ったとき、その痛みを乗り越えるために、例えばその喪失について、何からの意味があったはずだと考えようとするかもしれない。「今は辛いけれど、きっとこのことにも意味があった」とか、そんなふうに。

けれどこの作品の登場人物たちは、そうやって自身の痛みに意味求めたりすることはない。彼らはただ黙ってその喪失が起こった現場を去る。より平易に”その喪失を諦める”のだ。

諦める人々の背中

ラジオの深夜番組を作りたいという熱意を持ち仕事をしている新人ADの坂上という青年を主人公にした『聞こえてくる歌』では、なかなかうまくいかない仕事や周囲からの露骨な学歴差別に苦しみながらも、自分と同じように夢に向かって進んでいるアナウンサーの杉山という女性に淡いあこがれを抱いていく様子を描いている。

けれども坂上は所詮下っ端のADであり、アナウンサーという存在は高嶺の花。おまけに彼女の周囲には別の男の噂まであって、彼には入り込む余地がない。彼女が夢を諦めて局を去ることになったときも坂上は彼女に近づくこともできない。けれども彼は、彼女が乗った車が去っていくのを最後まで見送る。

『ばかねこ』と同じように、ここでも喪失の痛みや悲しみを積極的に乗り越えようとする姿が描かれることはない。坂上はただ読者に背を向けて、去っていく杉山を見送るだけだ。けれどもその背中は、ただ失われたものを見送るだけのものではない。

杉山は去っても、彼にはラジオ局に残って自分の夢のためにしなくてはならないことがある。「仕事すっかな」という彼のぼそりとしたつぶやきで物語が終わるように、彼は喪失の現場そのものに背を向けて、すでに次へと向かい始めているのだ。

この作品の中で、登場人物たちの”背中”は喪失を粛々受け入れる諦めの姿であると同時に、次へと向かおうとする姿勢でもある。諦めきれないはずのことを諦めた、そのもう一歩先の姿なのだ

そうした”喪失の先”に向かおうとする姿勢が強く現れているのが『サムライ戦隊ブシドーファイブ』で、こちらは特撮ヒーローの舞台裏を描いた作品だ。僕がこの短編集の中で最も好きなお話でもある。

主人公の今井綾は特撮ヒーロー「ブシレッド」役の新人女優で、この物語は彼女が「ブシドーファイブ」という作品が終わってしまう、喪失の寂しさとどう向き合うかを描いた作品となっている。

家族のように接してくれた共演者やスタッフたちとの別れが迫り、父親のように面倒を見てくれたプロデューサーは番組終了後に降格されるという噂もある。周囲の人達がそれを従容として受け入れていることに、綾は耐えられないのだ。

彼女は最後にこんなことを言う『ホント言うと最初 特撮なんて仕事 恥ずかしいとかやりたくないとか思ってたの けどね 今は違うよ 胸はって言える ブシレッド役今井綾ですって』。そして綾は晴れやかな表情で最後の撮影に向けて駆け出してゆく。

彼女が最後に見せてくれるその背中が非常に良い。それについていろいろと詳しく語りたいところではあるのだけれども、せっかくなのでこのレビューを読んでいただいた読者のみなさん自身の目でぜひ確認してみて欲しい。

終わりに

最後になるが、ここで取り上げたもの以外も含め、本短編集は合計で8つの短編を含んでいる。いずれも秀作であり、短いながらも人の感情が揺れる瞬間を鋭く切り取った作品となっているため、百名哲という漫画家を知らない方は、この機会にぜひお手にとって頂ければと思う。